桜餅
大福餅
椿餅
三杯餅
やましな


有名な和菓子ができるまで…

干菓子

干し菓子には「いり種」と「焼種」がある。いり種には「おこし落雁」「白雪ショウ」があり、「焼き種」には「煎餅」「松風」「軽焼」がある。文化・文政(1804〜30)時代に江戸では、粳米を糒(ほしいい)にし水飴と砂糖で練り、箱に入れて冷やし、拍子木型に切った、「いなかおこし」が売り出された。

しかし、いり種(水を入れずに強火でいる)では打ち物、落雁,白雪ショウのほうがおこしよりも愛好された。材料はあらゆる穀物を利用し、いろいろな品を製造して賞味した。たとえば、金沢の「長生殿」、松江の山川秋田の「もろこし、奈良の「青丹よし」などである。また白雪しょうは名古屋と越後長岡の品が好評だった。特に長岡のものは「越の雪」の名で有名で、江戸の菓子司もこれを模製して新作品を作ったほどであった。

求肥(ぎゅうひ)

三代将軍家光の身代わりに京都に上使となった松平伊豆守が京都で求肥(ぎゅうひ)を賞味し、その味が忘れがたく、帰府後江戸中の菓子屋を探したが求肥を売る店がなかったので、仕方なく京都で有名な菓子司中島浄雲を御殿菓子司として呼んだ話もある。

餅菓子

江戸初期には葛餅わらび餅くこ餅などが流行したが、享保年間になると向島堤に「長命寺桜餅」が現れた。これは長命寺の門番山本新六がサクラの葉にヒントを得て売り出したものである。この桜餅は江戸庶民の気風にあって、天保年間に刊行された『江戸名物詩選初編』で二十傑に名を連ねるくらい有名だった。その後関西に流行した「銀鍔」が江戸でも評判になり、

また「大福餅は明和9年(1772)、江戸小石川箪笥町のお玉という後家が創製したもので、元禄時代にあった、腹太餅を改良して作ったものである。安価で大衆的なところから評判になり、数多くの行商人が江戸中に現れたという。

団子も安永・天明の頃盛んに食され、茶つき団子、笹団子、吉野団子。さらしな団子,言問団子、が有名であった。ぼた餅も江戸中期に栄え、「萩餅」「お萩」ともいい、庶民の菓子とされて、長い間貴人には賞味されなかったが、幕末からはかなり精選され、広く食されるようになった。

雑菓子

一般に黒砂糖を使用した下級の菓子をいい、後に駄菓子ともいわれた。延宝から天保(1673〜1844)にかけて江戸でもっとも人気があったのは、「助惣の麩の焼」で、水でこねた小麦粉を鍋の上で薄く伸ばして焼き、味噌を塗って食べるのである。、、また江戸中頃には大豆の炒り粉を水で練り、三角の棒状に形作り、竹の皮に包んだ州浜や、松翠、柚べし、人参糖、豆板などが人気を集めた。その後、今川焼、音羽焼、小麦焼、玉の井焼、五家宝、栗焼、かりんとうなどが町人の町江戸で大いに受けた。

幕末には最中と切り山椒が有名で、特に切り山椒は「酉の市」の名物として知られた。しかし、このような菓子は文政以後、白砂糖が一般に供給されて製菓技術の発達とともに、水準の高くなった上菓子と比較され、「駄菓子」、「一文菓子」と呼ばれた。しかし江戸庶民には人気があり、生産者、仲買人、小売人など専門的になり大いに栄えた。

 

                                                                 ブリタニカ百科事典1972年版